私は色紙を頼まれると「誠と愛」と書くことにしている。
私の人生の理想だと考えている。人に誠を尽くし、愛情を持って生きていくということである。
『誠と愛』を自分の処世訓として、若い時から一貫して今日まで生きてきた。私の仕事は株式投資であり、株の売買でこれまでの人生を送ってきた。株で儲けた金は、世の中の恵まれない子供達のために使いたい、これが私の生きがいなのだ。
「相場師一代」あとがきより一部抜粋
私は色紙を頼まれると「誠と愛」と書くことにしている。
私の人生の理想だと考えている。人に誠を尽くし、愛情を持って生きていくということである。
『誠と愛』を自分の処世訓として、若い時から一貫して今日まで生きてきた。私の仕事は株式投資であり、株の売買でこれまでの人生を送ってきた。株で儲けた金は、世の中の恵まれない子供達のために使いたい、これが私の生きがいなのだ。
「相場師一代」あとがきより一部抜粋
1897年 | 兵庫県赤穂市で零細漁師の7人兄弟の末っ子として生まれる。 |
1912年 | 14歳で神戸の貿易商に入社。その会社が倒産。それを見て「人につかわれてはたまらん」と起業の夢抱く。 |
1914年 | 中国で大金を稼ぐが、第一次世界大戦の戦乱に巻き込まれて無一文に。 |
1919年 | 大阪で鉄ブローカーをしながら伸鉄・亜鉛メッキの工場を経営。関東大震災の復興でも巨利を得る。 |
1927年 | 昭和金融恐慌がおこり、取引銀行の倒産に巻き込まれて会社が人手に渡る。図書館に通い、経済学を独学する。 |
1931年 | 大阪で株取引を始め、70円の元手を7000円に膨らます。1933年には是川経済研究所を発足させる。 |
1938年 | 朝鮮に是川鉱業を設立し、鉄工所や鉱山を経営。朝鮮総督・小磯国昭の知遇を得て、軍部とも密接につながる。 |
1945年 | 太平洋戦争敗戦により、全財産を没収・投獄。差別をしなかった為、朝鮮人や従業員・労働者らの除名嘆願で助けられる。 |
1946年 | 引き揚げ後、食糧問題を解決しようとコメの二期作や綿花栽培の研究をする是川農業研究所を設立。 |
1960年 | 株取引を再開する。同時に大阪近郊に土地を購入。65年に土地を売り、元手3億円を株の運用につぎ込む。 |
1976年 | 6億円に増えた元手のうち3億円を日本セメント株へ投資。需要増を追い風に翌年30億円の巨利を得る。 |
1978年 | 養護施設の児童に寄付を開始。79年には是川福祉基金(現是川奨学財団)を設立する。 |
1981年 | 住友金属鉱山の株買い占め。翌年200億円の巨利を得て、83年に長者番付1位になる。 |
1992年 | 9月12日死去。享年95歳。 |
自伝 波乱を生きる―相場に賭けた60年
単行本: 316ページ
出版社: 講談社 (1991/04)
発売日: 1991/04
相場師一代
文庫: 318ページ
出版社: 小学館 (1999/09)
発売日: 1999/09
最後の相場師
文庫: 363ページ
出版社: 角川書店; 新装版 (2007/05)
発売日: 2007/05